コラム 10周年記念 

10年間を振り返って


                   2006/5/4   前事務局 高橋英造

 今振り返って一番の思い出は何かと思うとき、それはクラブを設立した時です。 私がアメリカで免許を取ってから国内での訓練をしていた大利根飛行場の新日本航空から機体購入の話があり、雪風ヨットクラブの金谷さんとクラブ方式でやることを決め、最初の仕事は会員募集でした。 安全第一なるべく低価格で金銭には公明正大でとの理念で規約を決めて会員募集に望みました。 ロスのリバーサイド空港訓練時代の友人を中心にその友人を頼って4〜5回自由が丘や下北沢で機体の写真を見せながら説明会を開き2〜30名にお会いしましたところ設立時点で9名の参加者が集まりました。 10名が目標でしたが会員が後から入会することを期待して1996年3月23日に設立集会を開き会則を承認しました。 会長会計金谷さん、事務局高橋、予約担当廣田さんでした。
 飛行機購入の話があって約半年が経過し自分たちのクラブが出来たこと、クラブ機が到着しみんなで歓迎会を開いたときは感激でした。  今、そのころの写真を見るとみんな若く楽しげに笑っているのが印象的です。   しかしながらフライトクラブの寿命は短いので初めは1年か2年継続出来ればと他の会員とよく話し合ったものでした。

 いざクラブ機が着いてみて会員の経歴を見るとそのほとんどがアメリカで免許を取ってきたばかりで国内での飛行経験があまりない方ばかりでした。 私も大利根で訓練していたことで国内飛行の難しさがわかっていましたのでこれでは事故の心配があると思い訓練を新中央航空のインストラクターに依頼することにしました。 レベル1からレベル3までインストラクター同乗で飛行経験を積む事にしました。 当然インストラクター料がかかりますので最初のうちは従ってくれていた会員から技量が上がるにつれて次第に不満も出るようになりました。 しかしここが辛抱のしどころと思い過半数の訓練が終わるまでインストラクター付で訓練を受けて頂きました。 インストラクター料だけで10数万円の負担ででしたがその後の安全面で役に立ったと思っています。 1年位してインストラクター付での訓練は訓練が終わった会員が同乗すれば良いことにして、入会後最初の離着訓練とマニューバー訓練のみをインストラクター付として新会員の経済的負担を軽くしていくことにしました。
 1年目の耐空検査の時、年間飛行時間が200時間位になりましたそれを見て新日本航空の人が「年間200時間はすごいですねうちの事業用で使っているセスナより多いですよ」と言っていたのにはこちらがびっくりしてしました。 

 最初の年に4名の入会者がありました。が1年目の総会時点で2名の退会者が出てしまいました。 また2年目には案の定、予想以上に修理費がかかり資金が不足して臨時会費の徴収する羽目になってしまいました。この頃が一番苦しかったと思います。 でも会員のクラブ継続の意志が強く快く臨時会費を納めていただき継続することができました。
 3年目に入って会長の金谷さんが都合で退会し廣田さんが会長となりました。 この年は台風が多く利根川の河川敷である大利根飛行場が水没し代替飛行場の駐機料など思わぬ出費がかさんで2度目の臨時会費徴収になってしまいました。 
 飛行場の水没で芝生が泥だらけで飛行できない日が長くなったので思い切って龍ヶ崎飛行場に移動することにしました。 その際、整備も新日本航空から個人でやっている中山整備士に委託しました。 中山さんは南極越冬隊に飛行機の技術者として参加した方で整備に関しては検査官も一目置くほどの方です。  98年11月23日に龍ヶ崎に無事移動しました。  龍ヶ崎はプライベート飛行場ではタクシーウエイもあり滑走路も幅35メートル長さ800メートルあって双発タービン飛行機でも着陸できる立派な飛行場です。 これで滑走路の水没の心配がなくなり安心して飛べることになりました。 
 この年の10月大利根飛行場冠水などでフライトできなくなったのでその間を利用しホームページを立ち上げました。 その後、予約システム、会員募集などで活躍してくれています。

 2000年になってJA3607のエンジン取替えがエンジン製作会社ライカミングの規定で2000時間か12年までとなっていたため12年目となる9月末までにと、エンジンの取替え準備をしている最中に規制緩和の一環か突然直前の8月9日に12年の規定がなくなって、900時間さらにフライトできることになり多大な出費をしなくて済むことになりました。 これはクラブにとって非常に幸運で新機体購入の動きに追い風になりました。

 龍ヶ崎に移って駐機料は2倍になりました修理費、整備料、保険料などが大幅に減って資金的にだいぶ楽になって来ました。 会員の訓練もほとんど終了しクロスカントリー飛行も盛んになってきました。
 そうなると会員にも新しい飛行機購入の話がさらに現実化してきました。 JA3607はVOR、COMは一個、トランスポンダーはA、DMEもなくナビゲーションでは苦労しますがそれだけに技量を磨くにはぴったりでした、しかしもう少し新しいものをとの声が大きくなってきました。 

 2〜3年良い中古機があればと探しては見ましたがなかなか適当な機体は見つかりませんでした。 02年になって我々が新しい機体を探しているのを知って中山整備士がパイパーの161カデットが北九州にあると教えてくれました。 早速、千田さんが北九州まで見に行って携帯メールで連絡がありました。 「結構良い機体です計器もフル装備です」との声があってVORの計器の取り付け位置が少し違っていましたが皆さんの意見は買いましょうとの事で買うことになりました。 
  02年7月27日大阪八尾空港にパイパーチェロキーで引き取りに行きました。 八尾の第一航空の西村さんが出迎えてくれて契約書を交わして引渡し完了。 そのときお世話になった西村さんはそれからすぐに八尾のヘリコプター事故で亡くなられました。 
 引渡しの日の午後チェロキーとカデットでフェリーして来ました。 チェロキーは150HP、カデットは160HPで10HPほど馬力が上回っていますが速度はさほど変わりません、まだ新しいせいか燃料は逆に2時間30分の飛行で30リットルほど少なくて済み燃費のよい機体で、また上昇力もよく快適です。
 翌年の3月にお世話になったクラブ機JA3607は沖縄伊江島空港に売却され少し寂しくなりました。 そのうちに沖縄に会いに行きたいと思っています。

 当初心配された会員も順調に増加し2001年には17名になった時もありましたがその後13名で推移し2003年には適正会員数である15名に達しました。 現在では入会待ちの状態です。 また途中で入会された会員が半数を超えてきています。  設立当時クラブが10年も継続出来るとは思いませんでした、40代の中堅も50代もうすぐ還暦です。 20代と若かった会員も30代、10年間で結婚された会員も5組を数え次世代も誕生してきて将来が楽しみです。 
 クラブ機の飛行時間も年間200時間から250時間前後で推移しています。 JA4063の飛行時間も06年3月で2000時間までの残時間は350時間とエンジン取替えが迫ってきています。 この際、新機体購入の意見も多くなりました。 よく忘年会や総会のあとの宴会の席上ではもっと会員を増やしてもう1機、最終的には小型ジェット機買いましょうとか威勢のよい話が飛び出して聞いているだけで楽しいものです。
 しかし酔いがさめてから考えると、中古機ではなく新しい機体はよいのですがハイパーホーマンス機でプロペラのコントロール、ターボの操作、ランデングギャーの出し入れなどの操作が必要となる上級機は操縦が複雑になると15名の会員で操縦技量に差のある場合は安全運行には多少懸念も生じそうです。 資金的には会員には経営者も多いのでその会社が儲かった場合には問題はなさそうなのですが。

 私も事情で昨年9月10年間勤めた事務局を離れました。 設立当時からは発行してきたクラブ機関紙RAC会報も昨年12月で134号を数えました。 その綴りを読み返すとすぐにその当時のことが思い出されます。 今までに会員やそのご家族をはじめ、大利根飛行場の新日本航空、龍ヶ崎飛行場の新中央航空、整備士の中山さん、総会の会場を提供していただいている茅場町の串衛門さん、姉妹クラブとして交流させていただいている雪風ヨットクラブの皆さん、また事情で今までにやむ得ず退会された会員の方々など沢山の皆さんにお世話になってきました。 これらの皆さんのご協力なしには決して10年間はやってこれなかったと大変感謝しております。  特に広田会長の奥さんにははじめから7年間の長きに渡り予約担当係をしていただき本当に感謝しております。
 よい家族あってのよい会員、よい会員あってのよいクラブです幸い会長をはじめ会員の皆さんには恵まれ楽しいクラブライフを送ってこれました。 いつまでフライトできるかわかりませんができるだけ長く飛び続けたいと思っています。



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