コラム 

空と私、そして航空照明          2004.11.30 菅沢 幹雄

 空は広いな大きいな!子供の頃、誰しも歌ったことがある唄ですね。日中の屋外に出て、晴れ渡った空を仰ぎ見れば、大人も子供も、男も女も、日本人も外国人も、誰しもが同じ思いを抱くでしょう。 その時、飛行機雲を引きながら高空を飛ぶ旅客機を目にすることがありますね。あの飛行機はどこから飛んで、何処へ向かうんだろう。何気ない小さな疑問が浮かびます。

 また、空を飛ぶために生まれた鳥たちが、気持ち良さそうに飛び回っています。鳥は自分の生活のために空を飛びますが、飛行機は人間が作り出した偉大な道具です。ヘリコプターは別ですが、飛行機の飛行原理は鳥そのものです。ただ、羽ばたきによって推進力を得る鳥と違って、飛行機ではプロペラジェットエンジンによって推進力を生み出していますが、空中に浮く原理は全く鳥そのものです。つまり、鳥の翼は飛行機の主翼、鳥の尾羽が飛行機の尾翼です。鳥には垂直尾翼が無いじゃないかって?。あるんです。鳥の尾羽は実に良くできていて、斜めに傾けることで水平・垂直両方の尾翼の役割ができるんです。つまり、飛行機のエレベータ・ラダー・エアブレーキの役割までこなします。そういえば、飛行機にも垂直尾翼の無い、V字尾翼機がありますね。ライト兄弟以前から、空に憧れた人たちが鳥を参考にしていたのは疑う余地無しですね。
 鳥には足があるから滑走路は不要ですが、飛行機が飛び上がるためには必ず滑走路が必要です。鳥の足は空母のカタパルトのようなもので、地面(又は水面)を蹴って一気に加速して飛び上がります。稀には飛行機のように地面や水面を走って滑走し、飛び上がる変り種の鳥もいます。滑走路は飛行機を離陸速度まで加速させるために、また着陸した飛行機が安全に停止することができるまで減速するために使用されます。夜行性の鳥以外は、鳥目って言うくらいですから夜間は飛びませんが、飛行機は忙しい人間が乗る乗り物ですから当然夜間にも飛行します。人間も夜間は物を見る力はありません。そこで必要になるものが、夜間でも滑走路や誘導路を昼間と同じ<安全に使用できるように表示する、航空保安照明施設です。

 

 ここからが本題ですが、表題にあるように私にとって空は地面の上に立っているのと同じくらい身近なものです。幼少の頃は組み立て式ゴム動力機でよく遊んだものです。その頃、千葉県船橋市にあった、当時としては一大レジャー施設であり、今は無くなってしまった、船橋ヘルスセンターでセスナC172による遊覧飛行に搭乗経験を持ちました。私の父が「色々な経験を持つことは良いことだ。飛行機に乗せてあげる。」.と乗せてくれたものです。その時の感激は今でも鮮明に脳裏に焼きついています。私と飛行機の付き合いはその時から始まりました。

 飛行機の魅力に取り付かれた私はそれ以来、いつも頭の片隅に自分で大空を羽ばたく夢を持ち続けていました。運の良い事に私が高校生の時、千葉県成田市三里塚に国際空港の設置工事が開始されました。それが現在の成田空港です。「間近にいつでも飛行機が見られる」、無類の飛行機好きだった私にとって渡りに船とはこのことです。

 まだ開港前とあって、各社とも職員募集が進められていた時期でもあり、昭和49年1月、空港施設株式会社に入社(数年後、成田空港施設株式会社に転籍)することができました。元々が飛行機と同じくらい電気いじり(当時は半田ごて片手に、並3ラジオや高1ラジオ、真空管アンプの製作)が趣味として好きだった私は、同社の弱電部門である電気部電気課通信係に配属して頂きました。自分の好きな道が仕事になったのですから、幸運です。天職とも言えますね。そうこうしている内に十数年、その間にも空への憧れは消えませんでした。

 私が29歳のある日、書店でふと手にした雑誌「翼」、ぱらぱらと捲ると「あなたもパイロット」の文字。読んでみると、日本飛行連盟の飛行場で操縦訓練ができ、車が運転できる人なら誰でもパイロットになれるとの事。これには目が釘付けになりました。一番近い訓練飛行場はと調べて見ると、ありました、大利根飛行場。隣の河川敷ゴルフ場には何回か行ったことがあったので、場所は直ぐに分かりました。「これはもうやるしかない。」直ぐに電話して具体的な訓練方法を確認。飛行クラブに所属し、それからひと月後の昭和54年5月には操縦練習許可証を取得して、もう飛行訓練を開始していました。当時はシフト勤務であったこともあり、週に3回ぺ一スで飛行訓練に通いました。その甲斐あって秋には学科試験に合格、翌年4月には航空局試験官同乗の実地試験に合格し、めでたく自家用操縦士が誕生しました。

 当時の日本飛行連盟では最遼・最短記録であったようで、達盟のクラブ誌であった「翼」にも紹介記事が掲載されました。秋こは娘2人と息子1人がおりますが、間もなく3人目の子である息子が生まれる直前のことです。


 自家用操縦士技能証明取得後、同年に航空無線免許を取得。操縦練習をしていた時に知り合った社長さんやお医者さんたちと共同所有でJA3637米国パイパー社のチェロキーを所有。大利根飛行場から家
族や友人たちを乗せて、大島・三宅・松本・桶川・南紀自浜・八尾等の関東近辺の飛行場まで大空の自由散歩を楽しみました。

 その頃社内で人事異動があり、次に配属していただいたのは電気部照明課、現在の航空照明部航空照明課です。こちらは自分で飛行機を操縦していなければ余り縁の無い職種です。しかし、その頃はプライベートオペレーションとは言え、既に自分で飛んで行く空港でお世話になる立場でした。これで、仕事では他の空港から飛んでくる飛行機に気持ちよく使っていただけるように航空保安照明施設の保全業務を担当し、休日には他の空港で使わせて頂く立場となりました。「仕事はお客さんの立場に立って、使う人の身になってやらなければ良い仕事はできない」とは良く言われる言葉ですが、正にその立場で仕事することになり、またまた天職についてしまいました。

 成田空港上空は、何度かオーバーフィールドし、クロスオーバー・ザ・ランウェーの経験がありますが、欲を言えば、実際に成田空港をナイトフライトで利用して、自分たちが維持管理している航空保安照明施設を使用して見たいものです。

 その後、阿見飛行場でセスナC172を使用した別の飛行クラブに所属。
2年程でまた大利根飛行場に戻り、別のパイパーチェロキーJA3607を共同所有。
 この頃は腕も上がり、北は札幌丘珠・奥尻・函館・青森・大館能代・秋田・花巻・庄内・山形・仙台・福島・福島スカイパーク・新潟・佐渡、関東近辺では新島・神津島・八丈島・名古屋・富山・館林(H15.12.31で閉鎖)まで足をのばしました。JA3607は鹿児島空港を拠点とする新日本航空から購入し、自分たちで飛んでフェリーしたのですが、何故かその後は八尾より南には行かずじまいです。その後はやはり米国パイパー社のカデット(ウォリアのスクール仕様機)JA4063を追加購入。2機体制を整えた飛行クラブとなりましたが、カデットが入ってからはチェロキーの飛行時間が激減。乗り心地を車に例えて比較すると、チェロキーはコンパクトな4気筒車、カデットはV6高級卓の乗り心地です。軽快に飛びたい人にはチェロキーが向いていますが、皆さんエンジン音も静かで重厚な乗り心地のカデットがお好みだったようです。やはり2機の所有は不要との結論でJA3607を売却。購入してくれたのは沖縄の方で、購入者自らが引き取りに来て飛んで帰られました。現在沖縄の伊江島空港で元気に飛び回っているそうです。

 機体はチェロキーもカデットも低翼機です。高翼機のセスナと比べると、離着陸時の横風安定性では圧倒的に低翼機の方が優れています。短い600m滑走路の大利根飛行場をべ一スにしていた時、大島からの帰りで大利根着陸時に43ノットのクロスウィンドになったことがありましたが、未熟なプライベートパイロットの私が難なく着陸することができました。これも、低翼機ならではの芸当ですね。

 大利根飛行場は、秋の台風襲来時期になると大忙しになります。利根川が増水して飛行場が完全に冠水してしまうことがあるからです。滑走路は深い利根川の川底と化してしまいます。ある台風上りの日曜日、いつものように近くのパチンコ屋さんで出ない台とにらめっこしていると、私の携帯電話に着信あり。誰だろうと出て見ると、大利根飛行場の職員の方からです。「台風で増水し、飛行場の25側から水が上がってきたので、龍ヶ崎飛行場にフェリーしてもらえませんか」とのこと。幸か不幸か球も出ていなかったし、早速大利根飛行場に駆けつけて、飛行場の北側4マイルに位置する龍ヶ崎飛行場を目的地にフライトプランを成田に提出して、フェリーです。年に2度3度のことですが、これが結構面倒くさい。どうせ台風の度に龍ヶ崎に避難するなら、いっそのこと龍ヶ崎をべースにしちゃおう!と言うことで、この後は龍ヶ崎飛行場がホーム飛行場となりました。なお、龍ヶ崎飛行場は平行誘導路付きの800m滑走路を持つ、プライベート飛行場としてはかなり立派な飛行場です。


 カデットでは平成15年にオープンした能登空港にも舞い降りてきました。開港直後から能登空港クロスカントリーを計画していましたが、天候不良や台風来襲、飛び込みの用事発生で延び延びとなり、計画から6ヶ月かけて平成15年12月23日にようやく実現することができました。快晴、風も影響が無い程度で、絶好の飛行日和の中、朝09時40分に龍ヶ崎を離陸。一賂能登に向け1万フィートまで上昇。地上視程は20q程度でしたが、5千フィートを超えるあたりから100q視程となりました。

 すばらしい雪景色の富士山や南アルプスを左に見て北アルプスを飛び越えるとそこは日本海。冬の日本海沿岸は富山方面も新潟方面もベッタリ雪雲です。能登に着陸するためには、この雪雲の下に出なければいけない。海上に出て雲の切れ間から雲の下に入り込み、小雨降る低視程で能登半島へ。半島に入ると空が明るく、雲が切れてきました。程なく山の中に新設されたばかりの能登空港が視界に入りました。
サウスイースト10マイルで能登レディオと交信。
「Noto radio this is JA4063,now  southeast 1Omile at 1800feet,   We are inbound to Noto airport,  request  landing  information」。
 6マイルサウスイーストまで接近した時、能登レディオからR/W25レフトベースでのポジションリポート要求。 夜間であれば、航空保安照明灯火がきらびやかに見える位置です。 レフトベースでポジションリポート後、ファイナルターン。 デイフライトVMCなので進入灯火は点灯していませんが、滑走路の左側に4灯並んだPAPIを確認。 おっと、少し高めの白白白赤だ。オングライドに乗るためパワーを調整し、オングライドでショート・オン・ファイナルからR/W25へするりと着陸。 向かい風のため、龍ヶ崎から2時問半の行程でした。 エプロンに入ると駐機場は貸切り状態。広いエプロンには我々のカデット1機のみです。 閑散としたターミナルで昼食後、直ぐに帰りの準備。能登に滞在は、わずか50分です。
 我々のクロスカントリーは飛ぶことが目的のため、いつもこのような忙しいフライトです。冬は日が短い。日没前には龍ヶ崎に到着しなければいけません。13時30分に能登を離陸。来た時のルートを逆戻りして15時30分に龍ヶ崎着。帰りは追い風に乗って2時間の行程。年に何度も無い、絶好のフライトでした。携帯電話のカメラなのできれいではありませんが、写真はその時のものです。


 
 なお、航空保安照明に私を引き合わせてくださったのは、新東京国際空港公団で航空保安照明の0Bであり、現在も保全業務実施上のご指導を項いておりますことを追記いたします。

 

(この文章は航空灯火友の会発行 とうゆう第67号(16年11月30日発行)に掲載されたものを本人の了解のもとに掲載しました。)


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